映画での表現のスタンス

先日、あるドキュメンタリー映画を観に行きました。
方向性としてはナイスミドルの映画と似たようなコンセプトを題材にしたもので、テーマとしては近いかなと思いながらも、そうでもないとわかりながら。

ドキュメンタリー映画の世界では最近よくありがちな、テレビ局制作の作品でした。表現の仕方としてはやりやすいだろうなと思うこともありながらも、なかなか参考するまででもないというふうにも受け止められた。

映画での表現とテレビのそれとは別物であるはずなのに、ドキュメンタリーの大量生産により、そのボーダーがボヤけてきてしまっているように感じます。

テレビ番組を映画と称して劇場で公開しているという形式。
ネットでの視聴がスタンダードになりつつあって劇場の経営も困難でしょうけど、純粋な「映画」を守るということは大切なことなんではないかとも思う。

似て非なるものという意味では、自分でしかできないやり方ということで作っていくことが肝心になるのか。

だいぶナイスミドルの映画の制作が終盤に近づいていることもあって、他の作品のいいところを羨ましいと思いながらも、いま作っている作品のいいところが輝けるように磨いていくことをしていったほうがいいんでしょう。

映像のスタイル

今月も注目のカードが決定したナイスミドルが開催されます。どんな試合が繰り広げられるだろうかと楽しみにしている一方で、自分的にはもう少し頑張らないとな日々が続いております。

映画の方は編集を詰めていく段階まで入ってきてまして、大枠から細部まで見直しながら、面白い作品に仕上がるよう、目先を変えて作品と対峙しています。孤独な作業の繰り返しなので、だいぶ煮詰まっていて、気分転換をしながら路頭に迷ったりもしています。

昨年、自分のショートムービーのこじんまりとした上映会がありました。初上映作を含む、新旧が織り混ざった9作品の上映で、ナイスミドル関連のものも上映しました。

20年くらい前に撮った低画質がものが多く、それらの作品の評判が良かったのが意外でした。
複数の方から、作品の雰囲気がノンフィクション作家の沢木耕太郎さんのような印象を受けたという感想をいただきました。これはおそらく旅をしながら撮ったものが多かったからでないかと推察しました。

それとは対照的にナイスミドル関連の映像に対しては、他人の企画で撮らされることになった作品ではないか、と言われもしました。確かに自分の過去作とは、映像の雰囲気やスタイルが異なるので、もしかすると別の人が撮っているくらいな印象を受けられたかもしれません。ナイスミドルについては、自分的にはドキュメンタリーを撮る上で最もやりたいと考えていた制作スタイルで撮れているので、また違った感覚を楽しんでもらえたらという感じでいます。

最近、まったく別の案件で撮って出しのような簡単な編集をしました。こういうのは久々だったので、少し編集に対する目線を変えることができました。

長編だと様々な物語を織り込んで語ることができますが、短編だとダブつかないようにスリムに要点をまとめることに尽力するわけで、その感覚を思い出しました。自分の場合は、やりすぎくらいに端折ってしまうこともあります。ナイスミドルは扱っている素材のことを考えると、頭を短編的な編集ですすめるようにする必要がある箇所も多く存在することを想いました。緩急の急みたいな部分のことかもしれません。

自分の過去作品は短編でも長編のような雰囲気があった気もするし、それは素材のせいのようにも思う部分もあります。大量の素材の囲まれているナイスミドルの編集は、長編の雰囲気も短編の雰囲気もうまく取り込んでいけるような形ですすめているのかもしれません。

いずれにしても最終コーナーの編集作業は急ピッチで進めています。

PVを作り始めたきっかけ。理由。

毎回、ナイスミドルの試合に挑む選手に、試合前の心境を聞くPVを撮ってきていましたが、最近はあまり撮っていないこともあり「今回は撮らないのですか?」と、たまに聞かれることがあります。そもそもなぜPVを撮るようになったかといえば、すべては映画の完成に向けてだったということです。そのことについて言及してみようと思います。

いまでこそ私は、ナイスミドルの出場選手のことをだいたい存じあげておりますが、制作発表前から動いていたこともあり、撮影開始当初は誰一人、よく知りませんでした。ですので選手の集まるところに頻繁に顔を出して自分を認知していただき、撮影の協力を仰いでおりました。

作品の方向性は最初からある程度定まっているものの、ドキュメンタリーですから、何を撮ればいいのかは制作者自身もわからないところもあり、制作を進行させるには、とにかく必死にカメラを回すことにつきていたわけです。

みなさん、私のことは何処の馬のホネかもわからない制作者でしたでしょうから、ある意味、映画のために闇雲に撮り続けていく中で、PVを撮るようになった源は、みなさんに制作の進行状況や「自分の能力」を示す必要がある、目に見えてわかるように、どれくらいのクオリティのものを制作できるのかを知ってもらうためでもありました。

最初のPVを編集したときは、それまでに撮りためたもので、なにかしら形にしてみようと動いた結果なわけです。と同時に映画本編の完成形を、自分なりにイメージしやすくするためでもありました。

毎回、全試合の中から注目の試合を取り上げて撮影に行っていたようにも見えたことと思います。そういう形で撮っていたこともありました。とはいえ基本的には自分の知らない選手に接触するためであって、その選手と自分との関係性の発展や、選手のナイスミドルや競技・挑むことへの想いを知ることを第一義的に撮り続けていました。そこから様々な要素・出来事を見させていただいて、映画の材料となるものを判断していたわけです。

最初からPVありきでPVの制作を始めたものではないので「煽らない煽りV」などとも言われてきましたが、みなさんとても力になっていただいて、特に田中聡選手には毎回のようにご協力をいただき、盛り上げていただいておりました。撮影して公開することで、自分から選手へのエールのつもりでもありました。

だいぶ編集も固まってきている中で、本編のベースとなるような活動を並行してやってきていたことは、かなり実のあることだったということがわかってきています。まだ編集は続きますが、非常にいい感じに進んでいると思います。

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9月はナイスミドルと同じ日に、Dr.インクレチン選手の試合が米子で行われます。
長友選手は、ナイスミドルにも出場したことのある選手との、プロでの試合があります。
9月10日はかなり熱い日となりますね!

DUEL.28
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GAINA魂
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制作の行程

映画制作というと、一般的には劇映画のことを想像されるかとは思いますが、ドキュメンタリーの場合、同じ映画とはいえ、制作の行程はかなり異なってきます。

特に違ってくるのは、台本の有る無しです。

劇映画だと撮影の前に台本を作る事で、そこから先の行程が見えるようになるので、撮影前までの準備が重要になります。台本があることで、撮影・編集・仕上げの作業の予定が決まり、その逆算で上映の予定や映画祭出品の予定が立ってきます。

ドキュメンタリーは企画やコンセプトを作り、それに沿った形で先に撮影を進めて行く形。撮影中には追っている事象の変化によって、制作者側も変化に合わせていかなくてはならないので、場合によっては当初の企画内容からズレていく可能性もありえます。大抵はいい方向への変化であるから上映にこぎ着けているのだろうと思います。

撮影しながらも編集をするわけですが、ドキュメンタリーの編集は作り手側の意図が濃く出てくるもので、それこそ作家の個性そのもののようになるのでしょう。編集の内容によっては撮影素材が足りなくなることも多いので、編集しながら追加撮影することもよくあります。

ナイスミドルの映画では、選手を主体にナイスミドルのコンセプト的なものを描こうとしているわけですが、それより前に、作中で描くもののベースとなる思想的なものを固めることにも邁進していました。企画を考え始めた当初は、どんな選手がいるかなど知るわけもなく、制作に協力的な選手を中心に、作品の方向性など見えないところから練習風景の撮影を始め、徐々に選手のことを知るところから始めました。

個々の選手の考え方はバラバラなので、それをいかにして一本の作品としていくか。ここが肝心。あの選手とあの選手の関係性は?とか、考えがダブらないようにとか、表現しようとしている内容に合う形でそれぞれの選手のストーリーを、撮影・編集を進めながら紡いでいくようにしていきます。どんなにいい映像が撮れていたとしても、作品にそぐわないと判断したならば、カットせざるを得なくもなってしまいます。

撮影を始めてから具体的に作品を構築していくので、ドキュメンタリーは完成まで時間がかかるケースがほとんどです。

仮編集が上がってから映像の色調整、音の調整、音楽入れ、ナレーション収録、権利処理などの作業をして作品の完成となります。台本は編集が終わってから作ります。意味的には台本ということでもありますが、どちらかというとナレーション原稿的な意味合いが強いかもしれません。

同時に映画祭の出品や上映館との交渉やパンフレットやチラシ・ポスターの制作など、リリースに向けての作業が始まります。

現状は仮編集を進めている段階です。まだストーリーを語れる段階ではありませんが、仮編集の後半に入り始めているので、何となくの構造的なことは言えるような感じではあります。完成はあともう少し楽しみにお待ちいただきたく思います。

涙の成分

連休が続いたあとの今月の半ばに、次回のナイスミドルの試合が開催されます。今回も楽しみなカードが目白押しですが、ウェルター級のタイトルマッチ、クラッシャー荻原選手が初の防衛に成功するか、見どころです。

試合に臨む選手たちは負けることは考えずに試合に挑むのは当然かと思います。勝つために苦しい練習をこなしていくのでしょうし、結果、報いを受けるのでしょう。確率的に言えば50%ではありますが、その数を上げるために頑張るのかもしれません。

それでも負けたときに、選手の胸には何が去来するのでしょうか。心境が複雑なのは間違いないでしょうから、その答えとして涙がこぼれる瞬間もあるかもしれません。涙は何でできているのでしょう。言ってみたらその涙の成分を分析していくのが映画なのかもしれません。

映画の制作は続いています。
まだ時間がかかるのは一つには交渉を並行して進めているということは以前にも言及しました。主には権利的な面での交渉です。映画は1人で作れるものではないですし、関わる多くの方の協力のもとで進んでいくので、丁寧に許諾をいただく必要があります。そこが疎かになっていると、最悪オクラ入りになりうるもので。。

大変困難な交渉も一つ二つではありませんが、快諾くださる方が多いのも事実で、映画の完成を楽しみにいていただけるのは、とても心強いです。

終わりは始まり

ナイスミドルに出場する選手と接していると、練習するたびに上手くなっている実感があることを話す選手と出会い、50を超えても伸びしろがあると耳にします。また「自分らしい」戦いをしたいということもよく聞きます。そのための心のトレーニングもするようです。

その一方で、引き際を考えている選手もいます。

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「試合に出ても結果に後悔してしまうというか。だったら戦わない方がいいのかな。同じ熱量、同じ練習量でできなければ、それはもう試合にあえて出る必要はないのかな。」

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「引退」を口にする選手もいますが、ナイスミドルに「引退」はないと言います。

試合をしたいと思ったときに出場すればいいわけで、そのときは出場のタイミングではなかったということなのでしょう。

思うように体が動かない。昨日できていたことが今日になってできなくなっている。ケガが快方に向かわない。

40代前半の「若手」でも、そこを頭に描きながら練習している選手もいれば、歳を重ねるほど進化しているという選手もいます。ストイックに求め続けている選手もいます。

自分が決めた地点まで動く人もいれば、納得いくまで続ける人まで千差万別ですが、確実なことは、一時的に休みを取ったとしても、どのタイミングでけじめをつけようとも、思い立ったときから挑戦することはできるということです。

語られるもの

編集、進めています。

だいぶペースアップしてきましたが、それでも進んだり戻ったりの繰り返し。

先日、追加の撮影を行いまして、これはなかなかいい素材を撮らせていただき、印象的なシーンを組むこともできています。

全体の構成はある程度、見通しは立っているものの、実際に細部を詰めて行くと、間にクッションを入れたほうが一息つける、などと、ブロックを増やして、流れを良くしたり。とにかく試行錯誤の日々です。

引き分けは別にして、勝ちか負けが決まる勝負の世界を描いています。

そんな選手たちも、生活しているのは、二元論で語れるほど単純にできた世界ではないですし、映画で語られるものも、勝ち負けだけではないところに漂っている選手たちの想いの部分です。

想いがあり、迷いがあり、葛藤がある。
誰にでもあるものであり、ミドルエイジの選手たちも、等しく持っているもの。

編集を進めていて、改めて皆さんの想いに興味を持ちます。

強さの証明を手に入れたい。
仕事の制約や、老化との駆け引き。
想いと気持ちが比例しない、心の弱さ。

挑むための覚悟。

戦う相手は対戦相手だけではない。

その想いに正直に生きて欲しいと願うと同時に、後押しできればとも思います。人間が生きて行く上で抱える、根源的なところを扱っているでしょうから、響くものも多いだろうと思います。

撮影も編集もまだまだ続きます。

新年度からのカメラ

先月のナイスミドルでは、試合前に撮影に伺ったJ.B.kyonso選手が、見事にライトヘビー級の新チャンピオンに輝きました。おめでとうございます。

撮影時のインタビューでは自信なさげに「プレッシャーかけないで下さい」としきりに口にしていましたが、その試合の勇敢なチャンピオン然とした試合運びに心を打たれました。頼もしいコメントをもらえるだろうと期待しているところに、スコンっと気の抜いた返しをしてくる飄々としたJ.B.kyonso選手はみんなから愛される選手です。今後の防衛戦も楽しみにしていきたいですね。

さてカメラが壊れました。

今回はサブで使用しているものではありますが、重要な役割を果たしているものなので、早々に新たな代替機を見繕いました。私はそこそこの機材を長く使う方なので、修理に出すにもメーカーも対応していない古い型で、新たに買った方がいいという、よくあるケースです。

この映画の撮影期間には何台かカメラを追加して使用するようになったり、メインで使用しているカメラが壊れてしまったりがありました。メインのカメラは本当に古いのですが、ギリギリ補修期間内だったので修理してもらえたという、正に綱渡りとも言える制作の現状だったり。

皆さんのご協力なしには進まない制作ではありますが、機材がご機嫌斜めになっても進まない制作であります。これは映画の醍醐味でもあって、事前に頭で計算して考えておき、でも現場に行けば計算は儚く崩れ去ることの方が多く、とはいえ体力を要しながら撮影した素材を、機械を使いこなしながら、イメージした通りにまとめ上げていくという。そしてそれを理論ではないところで人の心に届けていく。音楽や間、空気、色、リズム、カットの並び等、様々な要素をうまいこと紡いでいくことで良い作品に仕上がっていく。

いろいろやってます。
いまは編集が主ですが、撮影も少しずつ進めています。なのでカメラにはまだまだ重要な役割があります。

撮影クルー

私がナイスミドルと関わるようになったのは、2016年に開催されたナイスミドル32で試合の記録撮影を始めたところからです。試合が開催される度に、試合の撮影と編集を行ってきました。試合を撮影するにつれ、この中年たちの物語を描いていったら面白くなるだろうと、試合以外でも撮るようになりました。

映画を制作するにあたって、試合の映像が必然と必要になりますが、私が撮影しているのは試合の映像。会場の控え室などのバックグラウンドは私ひとりでは撮りきれきれるはずもなく、撮影のご協力をいただいている方たちがいます。

元ミドル級チャンピオンの小川貴弘さんにも試合中の撮影をお願いしたこともあり、たまにカメラを持っていただいています。またフェザー級の加藤巧さんにお願いしたところ、かなりカッコイイ映像を撮ってくださり、それ以来、会場内の撮影をお願いしております。

加藤さんにはカメラを2台託しており、臨機応変に使い分けて撮っていただいています。毎回試合前には、その日のなんとなくの撮影の狙いを伝えますが、撮影後の映像を見ると、私の想像を超えるようなイイ画を目にすることができます。なのでいつも安心して撮影をお任せしています。

会場での録音は中村充さんと大川和朗さん。
中村さんとは私の師匠の映画で一緒に制作したことがあり、今回の映画では音響全般で力になっていただいております。音響に関して中村さんには、様々なアドバイスをいただいており、この会場での音も作品となる頃には、臨場感あふれるサウンドで、会場にいるような感覚で劇場で映画を楽しむことができるようになるでしょう。

他にはカメラを固定でGoProを設置していたり、レフェリー用のアクションカムも設置しています。レフェリーカメラのレフェリーの頭への取り付けのフォローに、高橋澄人選手、クラッシャー荻原選手、助監督などに入っていただいていたりもしています。

試合のバックグラウンド撮影は、ある程度撮れてきているので、今後カメラの台数などは減らしていきますが、まだ撮影は続行しますので、会場での撮影にも是非ご協力くだされば感謝です。よろしくお願いいたします。

運を生み出す

先日のナイスミドル54でタイトルマッチがあった。
タイトルマッチの後、勝者が別階級のチャンピオンに、観客を前に対戦を申し入れていた。選手同士で対戦を決めてしまうナイスミドルならではの風物詩であろうか。

ときには思いもよらずに決まる対戦もあったりして、選手をよく知るファンにとっての醍醐味だ。思いもよらないという意味では、選手目線では心が追いつかない瞬間もあるかもしれない。自分が絡まなかったことで落胆することもありうる。ただそこには流れや伏線は必ずあって、それまでに積み重ねてきたものが複雑に絡み合って、たどり着いているものである。

「運がいいよね」

対戦が決まることにしても試合そのものにしても、運というのはあるでしょう。タイミングや周りの盛り上がり方も影響してくると思います。

運が良くて希望した対戦が決まる、運が良くて試合に勝つ。見た目にはそういうこともある。ただおそらく選手本人にしてみれば、運を裏付けるための振る舞いや行動、練習など、あらゆる努力はしているわけで、ただ単にタナボタなわけではない。

「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」

自分の想いを形にするための覚悟や決断、そういうものがベースにあっての運。いくら努力しても結果に結びつかないのは、不思議を解明していないから。運命を受け入れる能力も運であり、そこにたどり着いたということは、それは実力とも言える。ただの偶然ではなく、自分を磨き続けてきた日々の努力の賜物。

そして運を引き寄せるのに本当に大切なのは、周りの人たちの支え。自己中心の想いは、儚く消えやすいもの。

必然の運を、必然に撮って、必然に作品にする。

想いを現実にすることは、不思議でもたまたまでもなく、やり続けてきた事の答えである。